PLAYERS : MASAKI HARADA
原田 正規
MASAKI HARADA
ワイルドサイドを歩く
Part 1
サーフィンとともに生きる、原田 正規。47歳、再起をかけるプロサーファーのライフストーリー。
文:高橋 淳
サーフィンと出会った海辺の少年時代
原田 正規はサーファーたちによく知られた存在だ。1990年代後半から2000年代にかけて活躍した、往年のプロサーファーとして。当時隆盛を極めていたサーフィン雑誌のカバーショットを幾度となく飾り、長年にわたりプロツアーに参戦。今でこそスタンダードな技であるエアリアルをいち早くライディングに取り入れ、陸の上ではピットブルを連れ歩き、バイク、スケートボードも乗りこなす。ハードコアな原田のスタイルは、日本のサーフシーンで異彩を放っていた。
生まれは玄界灘に面した佐賀・唐津。原田の地元には、九州サーフィン発祥の地として有名な立神ポイントがある。「立神岩」と呼ばれる巨大な玄武岩柱がそそり立つ景勝地でブレイクする波は規則正しく美しい。小学校6年生の夏、少年原田に初めてサーフィンをする機会が訪れた。
「実家は唐津周辺を転々としていた。それで海のそばの家に引っ越したときに、近所の兄ちゃんに『サーフィンしよう』と誘われたんだ。オレはスケートボードをやっていたせいか、すぐにサーフボードの上に立てた。『これがサーフィンだ!』という新鮮さ、ワクワク感……。とにかく楽しかったな」
3本あるフィンのうち2本が折れたショートボードを兄ちゃんからもらった原田は夏のあいだじゅう自転車を漕いで海に通いつめた。しかし、ウェットスーツがなければ冬はサーフィンができない。スケートボードも楽しくてたまらない少年の足は、自然と海から遠のいていった。
幼いころから陸の上ではひたすらスケートボードに乗っていたという原田。「とにかく鬼練してたね」
写真提供:原田 正規
原田にとってサーフィンはスケートボードやバイクと同じくただの「遊び」だった。ライディングに自由な感性がにじみ出る理由
写真提供:原田 正規
実力を育んだコンペティションの世界
中学生になり、ウェットスーツとまともなサーフボードを手に入れた原田はサーフィンに明け暮れた。すると瞬く間にコンテストシーンで才能が花開く。最初の大会こそ沖に出られずに負けたものの、2回目からはファイナリストの常連に。高校時代には全日本サーフィン選手権大会※1で準優勝。そして世界サーフィン選手権大会※2の選考予選を勝ち上がり、日本代表の座を手にした。
「それが17歳のとき。トントン拍子でブラジルで開催された世界選手権に出て帰ってきて、2年くらい地元でサーフィンをしていた。そうしているうちに、1995年に19歳でプロテストに受かった」
順風満帆のサーフィン人生。原田はつねに波があり、多くのプロサーファーが暮らす千葉・一宮に拠点を移した。だが、プロの道は想像以上に険しかった。
「いっこうに大会で勝てない。理由はシンプルだよ。生活が安定してないから情緒不安定だったんだ。遠征をするにも、知識もないしお金もない。つまり大会に出る準備がまったくできていない。親にはサーフィンをすることもプロになることも反対されていたから頼れるわけがない。仕事を探しながらツアーをまわる過酷な暮らし。若かったから楽しかったんだけどね」
それでも反骨心をバネに日々サーフィンを追求していった結果、2002年にJPSA※3の茨城戦で準優勝、2003年には世界最高峰のWCT※4の新島戦に出場するなど、着々とコンテストでの実績を重ねていく。そして2004年、原田はJPSA四国戦でついにプロ初優勝を果たした。
※1 日本のアマチュアサーフィン最大の組織であるNSA(日本サーフィン連盟)主催の大会。日本全国にある各支部の予選を勝ち抜いた選手が集まり、その年の日本一をかけて戦う。
※2 IOC(国際オリンピック委員会)の国際競技連盟に所属するISA(国際サーフィン連盟)主催の大会。世界チャンピオンと国別のランキングを決定する。「ワールドサーフィンゲームス」の名称で広く知られる。
※3 日本プロサーフィン連盟の略称。同連盟のプロテストに合格すると、国内プロツアーに参戦するためのライセンスを獲得できる。
※4 世界のプロツアーを運営するWSL(ワールドサーフリーグ。旧称ASP)による世界最高峰のワールドツアー「ワールドチャンピオンシップツアー」の略称。現在はCT(チャンピオンシップツアー)と呼ばれている。
2002年JPSAツアーの1戦、ISU茨城サーフィンクラシックで準優勝を飾った雄姿
写真:平沢 久美子
ISU茨城サーフィンクラシックでの原田のライディング。シグネチャームーブのカービングを武器に力強いサーフィンを見せ、ハイエストポイントを出した選手に贈られる「エクストレイル賞」を準優勝とともに獲得した
写真:平沢 久美子
自己表現の場、ハワイのビッグウェイブ
2000年代半ば、原田はプロサーファーとしての生活が安定してきたことを機にワールドツアーに参戦。さらにオーストラリアに長期滞在し、世界レベルのサーフィンに照準を合わせる。しかしながら、原田はプロツアーでのランキングを伸ばすことができなかった。
「なぜか大会に対して具体的な目標を定められなかった。大会に勝つことではなく、サーフィンのスキルアップのことだけをつねに考えてしまう。トッププロサーファーのサーフィンを見て、『あいつらのレベルのサーフィンがしたい。自分を高めたい』という一心で世界をまわっていた」
そんな原田が名声を得たきっかけはハワイにあった。毎年冬になると、オアフ島のノースショアには太平洋の大海原を渡ってきたビッグウェイブが立つ。そのパワフルな大波を求めて、世界中から凄腕のサーファーたちが大勢集まる。世界レベルのサーフィンを目指す原田は、ハワイの波こそが真の試練だと捉えていた。本気で挑むからこそ、輝ける場所だった。
「ハワイにはサーフィンのすべてがある。あの波を経験していたら、どこに行っても怖くない。恐怖心もあったけれど、乗りたい気持ちのほうが大きかった。何よりもハワイでのサーフィンが好きだった。オレの活躍の場はコンテストじゃなかったんだ」
「自分が輝ける場所だった」というハワイでのチューブライド。クリスタルブルーの異空間に身を置くことでプロサーファーとしてスキルを磨いた
写真:神尾 光輝
行きついた道、サーフボードづくり
30代なかばを超え、家族ができるとともに、原田のライフスタイルはより地に足をつけたものへとシフトしていった。サーフショップ、続いてサーフボードメーカーを経営するようになったのだ。
「今度はビジネスというかたちでサーフィンがそろったんだよね。でもそのせいであることが欠けてしまった。それは人間関係。お金が絡むことで、今まで仲よかった人たちといい関係を保てなくなってきて……。最初は順調だった。でもやがて『サーフボードづくりだけを仕事にしたい』という欲が出てきて店を譲った。そのあたりから少しずつ歯車が狂っていった」
さらに自身のサーフボードメーカーのシェイパーと袂を分かったことにより、2013年から原田はサーフボードをみずからの手で削りはじめる。じつはその行動には原体験がある。原田が子どものころから、地元唐津にはサーフボードの工場があるのだ。プレゼンスサーフボードのオーナー兼シェイパー東島善寿、通称善さんのファクトリーだ。
「農家の倉庫を改造してあって、ボロボロなんだけれど、そこにサーファーがみんな集まってるんだよ。おれはまだガキンチョで『坊主、坊主』って呼ばれてた。中学生のころからシェイプルームに行って、サーフボードがつくられる工程をワクワクしながら見ていたんだ。当時はエアブラシとか刷毛で色づけした蛍光色のデザインが多くて、それがすごく格好よく感じられてね」
シンプルにサーフィンとサーフボードを追求することは、昔からサーファーが理想とする生き方だ。しかし……。
「お店やメーカーの仕事はどうしても自分本来のイメージが薄まる部分がある。でもシェイピングは自分の想像力の100パーセントをかたちにできる。そうしてできたサーフボードに乗って海で楽しむことができるなんて最高じゃないか。サーファーとして究極だと思ったよ。だけど今度はそれがビジネスにならなくなってきた。自分の理想と現実がうまくつながらない。シェイパーになったはいいけれど、お金に困ってほかの仕事をして……。オレのエゴが強すぎるのか。サーフィンで食っていくことは本当にむずかしい」
想像力を100パーセント働かせてサーフボードをシェイピングする原田。陸の上で完璧なサーファーでいる唯一の方法
写真:飯田 健二
POSTED : 2023-06-16