文:原田 正規
今までにいろいろなあこがれのサーファーがいた。
わたしが中学生のころは地元唐津でもサーフクラブが盛んだった。四畳半ほどの小さなサーフショップにはたくさんのサーファーがたむろし、店の前の通りに彼らの車がいつも路上駐車してあった。そのショップ、プレゼンスサーフボードのオーナーでありシェイパーの善さん(東島 善寿)はサーフィンがうまく、シェイピングからエアブラシ、仕上げのフィニッシュまでひとりでサーフボードをつくり上げる本当のカリスマ。そんな善さんを取り巻く仲間たちがあとを絶たない時代だった。
このSOUND OF SUNRISEの発起人である三原 康裕さんがプレゼンスサーフボードのショップライダーだったことが、今のわたしをつないでくれている。サーフィンを始めたばかりの当時のわたしは、ラディカルなサーフィンをする所属チームの三原さんに興味津々。まさにあこがれのサーファーのひとりだった。しかしその後、三原さんはすぐにデザイナーの道へ進んでいった。そのため、幼少期の残像として強く心に刻まれたヒーローとなった。
また福岡出身のプロサーファー、酒井 邦彦さんも印象深い。1994年、わたしは酒井さんと一緒に、ブラジルで開催された世界サーフィン選手権大会※1に出場した。彼は出身地名にちなんだ「新宮坊主」というあだ名で、九州のサーファーあいだで有名だった。九州最大のサーフィン大会、オール九州の連覇者。日本海育ちの酒井さんが、一年中波が豊富な太平洋側、宮崎育ちのサーファーに勝つ。その姿はわたしのあこがれだった。基本的に冬場しか波が立たない日本海育ちのサーファーは、太平洋育ちのサーファーたちをうらやましく思う。わたしはどうしても彼らに負けたくない一心で、波がないときはスケートボードに乗り、波があるときは一日中海で練習を積み重ねた。酒井さんと九州でおたがい刺激しあいながら、世界サーフィン選手権大会に一緒に行けたのはいい思い出である。酒井さんが表舞台で活躍したのはJPSA※2のプロテストが最後。プロ合格後は試合には出ないまま、家業を継いだ。
余談だが、母子家庭で貧困だったわたしのようなサーファーよりも、三原さんや酒井さんのように家庭的に恵まれ、洗練された人たちがプロサーファーの道を歩んだほうが日本のサーフシーンにいい変化をもたらすのではないかと思ったことがあった。でもサーフィンの原始的な根底から考えると、ハングリーなわたしみたいな人間にチャンスがまわってきていたことに幸せを感じる。
世界のサーファーで言えば、スタイルマスターのトム・カレン、ハードリッパーのマーチン・ポッターやワイルドスタイルのブラッド・ガーラックと、1980年代から’90年代のヒーローの名前を挙げ出すときりがない。当時は個性豊かなサーファーがたくさんいた。なかでもわたしのヒーローはマット・アーチボルドだった。一般的なサーファーは、海から上がればただのさわやかな人。しかし彼は、海から上がればホットロッドに乗り、ハーレーにまたがる。体中にタトゥーが刻まれ、ハードに好きなように生きるスタイルがサーフィンに反映されていて、たまらなく格好よかった。
今ではサーフィンがオリンピック種目になってよりスポーツ化したことで、ワイルドなサーファーは以前より影を潜めている。だが野生的なハングリー精神と探究心は、サーフィンにおいて重要な「スタイル」を形成するうえで今でも必要不可欠なことだとわたしは思っている。
※1 IOC(国際オリンピック委員会)の国際競技連盟に所属するISA(国際サーフィン連盟)主催の大会。世界チャンピオンと国別のランキングを決定する。「ワールドサーフィンゲームス」の名称で広く知られる。
※2 日本のプロツアーを主催する日本プロサーフィン連盟の略称。
アーチーことマット・アーチボルドのシグネチャームービーのトレーラー。オリジナリティ溢れる彼のスタイルをぜひご覧いただきたい
POSTED : 2023-12-01