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文:原田 正規

 

わたしはサーフィンを始める前からスケートボードをやっていた。どちらも今ではオリンピック競技。今でこそクリーンなスポーツといったイメージを持つ人も少なくないだろうが、かつてはただの遊びにすぎなかった。しかもやっているのは、自分も含めてたいてい素行の悪いヤツ。トラブルも多かった。もちろんまじめな連中もいたし、シーンには彼らの影響もあったが、革新的なできごとを引き起こしたのはたいてい前者だった。

 

わたしは1995年、20歳のときに千葉に引っ越した。カリフォルニアでは2パックが鳴り響き、日本ではJポップ全盛期という時代だ。千葉では本気でサーフィンをしていれば、海のなかで自然と同じようなヤツらと友だちになる。さらにおたがいスケートもやっているとなれば、なおさら仲が深まった。実家を飛び出した10代20代のサーフスケーターたちがまともなわけがない(今はそうとはかぎらないだろうが)。昼間はサーフィン、波がなければスケート。夜はスケートしながらパーティーに明け暮れる。バイトは合間で最小限。金はなかったが、スポンサーからいただいたサーフボードやウェットスーツなどを売りさばき、仲間と家をシェアすれば最低限度の生活はできた。

 

いいも悪いも、とんでもないことが起きる。たとえば借りた家が土砂崩れに遭うという経験をした。悪運を引き寄せるのが得意だったんだろう。ある日、その家のまわりで仲間とBB弾の撃ち合いになったことがある。近隣の住民に当たり、警告を受けるも気にしない。そんな悪行が土地の神様を怒らせ、私たちを追い出したのかもしれない。ほかにもここには書けないことばかりの最高に楽しい日々だった。当時のわたしたちは、遊びに生活のすべてをまかせることになんの疑問も持たない。やむを得ない状況になるまで、けっして悪ふざけをやめなかった。

 

それでもサーフィンだけは本気だった。思いが実ったのはハワイで写真を残せるようになったときだ。そうして徐々にプロとしてサーフィンで食えるようになっていったわたしは、私生活において葛藤するようになっていった。もっとストイックに世界を目指したくなったからだ。シェアハウスでは毎日類が友を呼び、誰かが何か刺激を求めにやってくる。地方の遠征試合から疲れて帰宅すれば、知らない女や野郎たちがなぜか自分の家でお出迎えということもめずらしくなかった。でもそれが楽しく、家族みたいな仲間がいることは幸せだった。だが「プロとしてもっとやりたい!」。そのためにはどうしたらいいのだろうか。わたしは考えるようになった。

 

 

地元唐津で仲間たちとザ・サーフスケーターズというイベントを開催したあとに近所を散策。全員イカれていなければこんな荒れた山で集合写真は撮らない。手前左から2番目でガッツポーズをするのが筆者。今は亡き友人もここにいる思い出深い1枚

写真:神尾 光輝

POSTED : 2023-06-16